こんにちは。守口市会議員団です。
[2013.6.3] -[インフォメーション]
「日本維新の会」の共同代表で大阪市長でもある橋下徹氏の、日本軍「慰安婦」は「必要だった」という発言への批判が広がり続けています。
橋下氏や「維新の会」は言い訳に懸命ですが、橋下氏は「必要だった」との主張を撤回していません。それどころか、自分が批判されるのは「日本人の読解力不足」が原因だと開き直り、日本だけが批判されるのは強制的に連行したと思われているからだと、「強制連行の誤解を解く」と言い出しています。「慰安婦は必要だった」という考えを変えない以上、「誤解を解く」などといってもそれは不可能です。
慰安所への日本軍の関与を示す資料はたくさんあります。
中曽根康弘元首相は、海軍主計中尉として「二十三歳で三千人の総指揮官」という題名の回想録を寄稿(松浦敬紀編著『終わりなき海軍』文化放送開発センター出版部78年90~98頁)。
その中で「原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために私は苦心して慰安所をつくってやった」と述べています。
そのことを裏付けるのが、2011年10月に防衛省防衛研究所戦史研究センターの資料室で発見された「海軍航空基地第2設営班資料」です。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに62年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26頁)。
資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
飯沼守上海派遣軍参謀長の日記(37年12月11日の項)でも「慰安施設ノ件方面軍ヨリ書類来リ、実施ヲ取計フ。」
同(同年12月19日の項)「憲兵ノ報告ニ依レハ十八日中山陵奥ノ建物ニ放火シ今尚燃ヘツ丶アリ。又避難民区ニ将校ノ率ユル部隊侵入強姦セリト言フ。迅速ニ女郎屋ヲ設ケル件ニ就キ長中佐ニ依頼ス。」