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  • こんにちは。守口市会議員団です。

    龍馬の手紙の中の一節「日本の洗濯」についての私見

    [2012.6.23] -[インフォメーション]

    6月になれば思い出されるのが龍馬の手紙の一説です。「日本を今一度せんたくいたし申候事にいたすべく」と言うものです。


    坂本龍馬の手紙の中でもっとも有名な手紙の一つが、「日本をせんたくいたし」と述べた手紙です。その手紙は文久3年(1863年)6月29日付で姉の坂本乙女あてのものです。

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     龍馬に限らず、当時は、当て字やかな交じり、話し言葉交じりは珍しくありませんでしたが、それにしても坂本龍馬は自由奔放な文章で、同じ土佐藩の白札郷士で土佐勤王党党首の武市瑞山(半平太)の几帳面な文章とは正反対です。
     活字になっているものが出版されていますので、読み比べてみると面白いかもしれません。(日本史籍協会叢書坂本竜馬関係文書1・2巻、武市瑞山関係文書1・2巻)

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     さて、龍馬が日本を今一度洗濯するというのは、国家を転覆するとか、革命を起こすとかいうほどのものではありませんでした。
     文久3年(1863)5月、長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を航行中の米仏蘭艦船に対して通告もせず砲撃を加え、攘夷を決行しました。すると、約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた事件がありましたが、その時に米仏軍艦を修理して外国の味方をした幕府と幕府の高官に対して憤り、これらの高官を一掃しなければならないと言っているのです。
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     その手紙の原文と意訳を紹介します。
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    然に誠になげくべきことはながとの国に軍初り、後月より六度の戦に日本甚利すくなく、あきれはてたる事は、其長州でたゝかいたる船を江戸でしふくいたし又長州でたゝかい申候。
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     しかしながら本当に嘆くべきことは長門の国(長州)に戦が始まり、5月より6度のたたかいがあったが日本に不利であった。呆れることには、その長州で戦った外国の船を江戸で修復してまたその船が長州での戦いに参加していることだ。
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    是皆姦吏の夷人と内通いたし侯ものにて候。 右の姦吏などはよほど勢もこれあり、大勢にて侯へども、龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先づ神州をたもつの大本をたて、それより江戸の同志、はたもと大名其余段々と心を合せ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事にいたすべくとの神願にて候。
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     これは皆、姦吏が外国人と内通しているものである。(老中唐津藩世子・小笠原壱岐守らを指しているものと考えられている)

     

     この姦吏などは権力を持ち大勢であるが龍馬は2、3の大名(越前藩・肥後藩・土佐藩を指していると思われる)と固く約束し、また同志を募り、朝廷にまず神州を維持すると大方針を立てさせ、江戸の同志、旗本や大名と段々勢力を広げ、姦吏たちと一戦交えてうち殺し、日本をもう一度洗濯することを神様に願うものである。
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     このように、文久3年の時点で、のちの薩長同盟による倒幕はまだ龍馬の考えには含まれておらず、松平春嶽や山内容堂などの有力大名や旗本など幕府の体制内での権力闘争で、攘夷を渋り開国を進める幕府高官を退けることを「日本を今一度洗濯」するとしているのです。
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     坂本龍馬を歴史上の偉人として尊敬する人は多いと聞きます。しかし、どんな偉人であっても最初から完璧な人はいません。いろいろな人物とのふれあいや自らの学習と努力によってより高い段階へと自らを高めていくのです。

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     坂本龍馬であっても、大政奉還や船中八策は、彼の独創ではなく松平春嶽や横井小楠、大久保一翁、月形洗蔵や中岡慎太郎、勝海舟など多くの人々の考えや思想を受け継いだもので、一歩一歩地道に大地を踏みしめながら到達したものであったはずです。

     

     

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    文責 真崎 求