こんにちは。守口市会議員団です。
当時の庭窪村へ大阪市旭区から学童集団疎開
日本の近代化が始まった明治維新からアジア・太平洋戦争が終結するまでが77年、そして今、戦争終結から77年が経過しました。
明治維新からの77年間は戦争の時代でした。日本が初めて海外に出兵したのが明治7年(1874年)5月の「台湾出兵」でした。以後、江華島事件、東学党の乱を口実にした朝鮮派兵、日清戦争、「台湾平定」、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、山東出兵、満州事変、上海事変、日中戦争、ノモンハン事変、太平洋戦争と、次から次に他国を侵略し海外での戦争を起こしてきました。
太平洋戦争末期までは主たる戦場は国外でしたが、1944年(昭和19年)頃から頻繁に米軍による日本本土への空襲が行われるようになり、非戦闘員である一般国民にまで犠牲が出るようになりました。
とりわけ、こどもたちに大きなしわ寄せが来ました。戦局が悪化しつつある、昭和18年末から児童の「縁故疎開」に便宜を図る措置がとられていました。しかし、昭和19年年6月15日、アメリカ軍がサイパン島に上陸すると、政府は「学童疎開」を「強度ニ促進スル」必要に迫られ、30日に「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童についても「集団疎開」を実施することにしました。
「疎開」とは本来軍事用語で、 戦況によって前進中の軍隊の距離・間隔をひらくことという意味の言葉です。都市で足手まといになるこどもを地方に送り出して、都市の防空体制を強化するとともに、将来の戦力となる子どもたちを温存するための措置でした。
大阪府は政府の「学童疎開促進要綱」を受けて、「学童疎開並ニ非難要綱」を決定しました。
疎開するように指定された地域は帝都(東京)のほか、横浜、川崎、横須賀、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡そして大阪の各都市でした。
学童疎開、庭窪村が受け入れ・旭区生江国民学校
現在の守口市域は、集団疎開では庭窪村(守口市と合併する以前)が集団疎開の受け入れ先でした。
庭窪小学校の『学校沿革史』には、(昭和19年)九月十七日 大阪市生江校、本校に集団疎開と、記されています。
大阪市旭区の生江小学校(当時は国民学校)は、庭窪村へ疎開してきたのです。現在では衛星都市の一部として都市化されていますが、当時の庭窪村は田畑、林野、水路や湿地帯の、のどかな風景が広がっていました。面積7.4K㎡に885世帯、人口4,452名(大正9年国勢調査)という農村地域でした。
そこへ、大阪市旭区の生江国民学校の、3年生から6年生の児童131人、派遣訓導9名(寮母5名、作業員4名)等が庭窪村へ疎開してきました。
※庭窪小学校の「学校沿革史」には、
六月十五日 警戒警報発令西天満校、本校に避難、民家に分宿本校児童五年以下登校中止とありますが、これは、非難指定区域の西天満国民学校の一年生から六年生までの二泊三日の避難訓練の日の出来事です。
本当の学童の集団疎開は旭区の生江国民学校でした。
「昭和十九年九月十七日、疎開地大阪府下北河内郡庭窪村に、多数の歓送を受け、親兄弟と暫く離別、楠正行の桜井駅決別にも似た精神を持って壮行した、児童百三十一名、付添教員訓導、寮母代用として九名出張」(生江小学校沿革史・原文はカタカナ)
庭窪小学校の「学校沿革史」には
(昭和20年)三月一日 生江校六年生送別式と、あります。
この日、6年生は卒業のために旭区に引き上げました。
生江国民学校疎開現地寮舎 | ||||||||
寮名 | 住所 | 児童数 | 寮母 | 作業員 | 現地学校名 | 備考 | ||
来迎寺寮 | 北河内郡庭窪村大字佐太 | 3年生男 | 15人 | 計69人 | 神野清子 | 濱井とみ | 庭窪国民学校 | 各寮近接し居るため作業員、寮医、寮嘱託を分けたず 枚方事務所 枚方警察署 |
4年生男 | 13人 | 中西乙美 | ||||||
5年生男 | 16人 | 山口克子 | ||||||
6年生男 | 25人 | 青山さかえ | ||||||
本性寺寮 | 北河内郡庭窪村大字佐太二番 | 3年生女 | 12人 | 計30人 | 武生喜久子 | |||
4年生女 | 6人 | |||||||
5年生女 | 3人 | 仲谷種子 | ||||||
6年生女 | 9人 | |||||||
浄宗寺寮 | 北河内郡庭窪村大字金田 | 3年生女 | 7人 | 計32人 | 苫坂美智子 | |||
4年生女 | 7人 | 坂本三次郎 | ||||||
5年生女 | 7人 | |||||||
6年生女 | 11人 |
上表は生江国民学校の昭和19年9月前後の学童疎開の状況
庭窪村から島根県に1年生から6年生
しかし、庭窪村の疎開生活も長くは続きませんでした。大阪空襲がますます激しくなり、庭窪村も安全ではなくなってきたからです。
大阪市史料編纂書発刊がしている「大阪市史史料第四十六輯」『大阪市学童集団疎開一覧(下)』には、昭和20年5月15日調の記録があります。この時点で既に島根県邑智郡矢上村、中野村、井原村(いずれものち石見町、現在は邑南町)へ1年生から6年生まで130人が集団疎開しています。教員6名、寮母3名、作業員4名が付き添っています。
自分の着物も満足に洗濯できない幼い1年生も必死になって疎開生活に耐えています。学童集団疎開の各種資料には、疎開生活での喜怒哀楽をつづった、児童の日記や手紙、感想文が数多くあります。
学童の集団疎開は8月15日を過ぎても継続されていました。ようやく昭和20年中に全学童を復帰させることを文部省が決定したのは9月21日でした。少なくない学童は大阪に帰っても、家は焼け家族の行先もわからず戦災孤児となった者もいました。
子どもたちに二度とこんな思いをさせないために、戦争を放棄した日本国憲法を守りましょう。