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  • こんにちは。守口市会議員団です。

    新守口No.2519 2021.8.22 守口市の歴史的資源の一つである文禄堤

    [2021.9.5] -[インフォメーション新守口]

    守口市の歴史的資源の一つである文禄堤の活性化に上層商家の家屋   

        京阪守口市駅北側エリアマネジメント推進事業に反映できるのか

     「京阪電鉄守口市駅北側エリアを貫く本市の貴重な歴史的資源である文禄堤の更なる活性化を図ります。
     往時の面影を残す旧家である旧徳永家住宅について、この度、建物所有者から寄贈の申し出があったことから、その文化的な価値を踏まえた活用方策に関する調査も開始いたします。」
     令和3年度市政運営方針で西端市長はこのように述べました。
     日本共産党の杉本悦子議員は「文禄堤を中心としたこの一帯は、守口市では数少ない歴史的遺産の香りが漂う場所です。物質的価値の向上ではなく、精神的な郷土をいとおしむ価値を引き上げることを目的とすべきです。…東海道五十七次の最後の宿場町としての守口宿一帯のエリアリノベーションは、歴史地区としての再生計画を中心に据えるべきであると考えますが、どうでしょうか。」と質問しました。
    西端市長は「京阪守口市駅北側エリアでのリノベーション戦略の推進に当たっては、貴重な歴史文化資源である文禄堤や当時の面影を残す歴史的建造物を有効に活用し、市民の皆さんが郷土としての守口の歴史・文化に対する愛着や誇りを感じることができるまちづくりにつなげてまいります」と、答弁しました。

    行った調査結果が「旧京街道守口宿の都市変容と町屋形式の特質」という報告書で残されています。その中では守口宿の「徳永治夫家住宅」「本西家住宅」「徳永貞家住宅」「鎌倉一雄家住宅」の4軒の町屋を調査したことが明記され、その内容が報告されています。
     市長が市政運営方針で述べた「寄贈の申し出」があったのがこの4軒の町屋のうちの1軒です。
    「報告書」では「当家住宅の間口は、上手座敷の落棟部分を含めて十間余りと長く、さらに上手座敷廻りには前庭が広がり屋敷の間口はさらに長大であり、屋敷内には蔵三棟をはじめ茶室など諸建築が建ち並び、上層商家の伝統的な家屋配置が良く維持されていて貴重である。」とされていますが、「内部は裏手や上手廻りに各時期の改造を受け、当初形式は不明な点を多く残した。」と、建設当時の形式については不明としています。
     建設年月日を明治22年6月としている文書もありますが、現在の家屋が建設当時のままであるかどうかは不明です。改築や改造するについては木材や瓦など使用できるものは再利用するのが通例であり、使いまわされた可能性もあるからです。350万円かけて行われる旧徳永家住宅建物調査等業務委託で、その実際が明らかにされるのが待たれます。
     貴重な歴史資源・文禄堤といわれていますが、表面の住宅地図は昭和35年のものです。手書きのため縮尺がまちまちですが当時の文禄堤上の家屋の配置がわかります。当時は、まだ古民家がそろっています。上の図には今は借地で民間のマンションが建設されていますが、昭和33年8月に完成した市民会館が見えます。その南側道路が文禄堤です。
     因みに、1837年(天保8年)建設の呉服屋・茜家は、平成28年まで現存していましたが今は建て替わっています。守口宿・本陣斜め前の大塩平八郎ゆかりの白井孝右衛門宅は平成20年に解体され、今ではファーストフード店に建て替わっています。また、傘と提灯製造販売の町屋も取り壊されています。平成4年の大阪府教育委員会が調査した4軒の町屋もほとんど建て替わっています。一方、その場所にあったはずのない高札場が史実を無視して市営住宅の北側にたてられています。残念なことに文禄堤の街並みは「当時の面影」がなくなっています。
     1軒の古民家だけで「守口の歴史・文化に対する愛着や誇りを感じることができるまちづくり」をどのように進めていくのでしょう。

          

    昭和35年の住宅地図(吉田地図)義天寺南側道路が文禄堤(下図))33年に完成した旧市民会館南側道路が文禄堤(上図)北側に守口温泉(浴場)が見える