[2020.5.1] -[インフォメーション・新守口・議会報告]
歴史的遺産・高瀬の地名にふさわしい公園整備を
土居公園再整備~ボール遊び広場や避難所への資材備蓄倉庫設置
平成31年3月に大阪府から押し付けられ、2億3280万円で購入した旧大阪府守口保健所解体後の跡地を編入して、土居公園を再整備する「土居公園再整備事業」に1億4千万円の限度額、2020年度当初予算5070万円が計上されています。
再整備のイメージとしては左の図にあるように現在の古いトイレを廃止し、バリアフリーのトイレを新設、防災倉庫を設置し、ボール遊び広場を新設するとしています。
土居公園再整備に関して実施設計のための委託契約を設計事業者と結びましたが、その仕様書の中の「業務内容」で
(2)実施設計の検討
・施設整備等を踏まえた土地利用及び敷地造成に係る検討と設定
・植栽基盤に係る検討と設定
・敷地の特性及び流出抑制機能等を踏まえた雨水排水に係る検討と設定
・既存樹木の活用や意匠、景観、機能性等を踏まえた植栽に係る検討と設定
・供給設備(給排水・電気・機械)に係る検討と設定
・防災施設等に係る検討と設定
・導入する施設の意匠、快適性、安全性、機能性等に関する検討と設定、及び経済
性、施工性、市場性等に関する検討と設定
に、ついて指示していますが、一般的な防災とにぎわい創設のための公園というだけで土居公園の特質についてのコンセプトはありません。他の公園に見られないものといえばわずかにボール投げ広場の設置くらいです。
一般的に公園ではホール投げ遊びが禁止されていますから、遊べるエリアを設置しようとしているのです。
守口市都市公園条例第6条 公園において、次の各号に掲げる行為をしてはならない。
(9)指定された場所以外で野球、ゴルフその他の危険を及ぼすおそれのある球技をすること。
平成31年1月24日付で国土交通省に提出した「社会資本総合整備計画」では、未だボール遊び広場構想はなく、保健所跡地の商店街側にパーゴラを設置し、土居東会館横の入り口付近に防災倉庫を設置するとしていました。
今年1月21日、株式会社空間創研 が480万円で設計委託を落札しました。今後も、設計業者との提案を受けての打ち合わせで施設の内容や配置は変更されていくことが予測されます。
ただ、防災倉庫については、設計委託公示期間中の質問と回答で「今回の公園設計業務には四阿(あずまや)、便所等の建築施設は含まれていますでしょうか?」との質問に「建築施設を含んでおります。主な施設としては便所の他に防災備蓄倉庫(一般でいう防災倉庫ではなく災害時に避難所へ届ける資材の備蓄を目的とする)を 予定しております。」と、防災倉庫の性格をハッキリ位置付けています。
守口市の中でこの地域には古代の地形の跡が残っています。現在の土居公園と旧守口保健所の間に滝井の墓地がありますが、他の土地と比べて一段高くなっています。これは高瀬が、淀川と大和川が合流していたところとされており、南に下る淀川本流と北上する大和川が合流することで土砂が運ばれてきてこのあたり一帯が他の土地より高くなっていったその名残なのです。高瀬神社も一段高い土地の上に立っています。(右の図参考・寝屋川市史第10巻より)
その後、京阪電車の開通や車庫の設置、住居の建設などの開発で高くなっている土地が漉き取られてほとんどの地域が平坦な土地になりました。
仁徳天皇11年の頃、天皇は群臣に「いまこの国を眺めると、土地は広いが田圃は少ない。また、川の水は氾濫し、長雨にあうと潮流は陸に上がり、村人は舟に頼り、道路は泥に埋まる。…溢れた水は海に通じさせ、逆流は防いで田や家を浸さないようにせよ」と、茨田の堤の築造工事が行われ、寝屋川市の太間から高瀬まで堤が築かれました。
また、門真町史(昭和37年発行)によれば奈良時代に僧・行基が藤田大蔵樋から門真町と庭窪村を境として高瀬神社の前に至る大庭堀川を開鑿して舟運を便利にしたとされています。
昭和の初めころに三郷村大字高瀬のうちに小高瀬という字名がありましたが、中世の小高瀬の荘は諸口、徳庵、横堤、世木、馬場、大枝等の総称でした。広大な荘園で、観心寺文書、楠正行下知状などに度々出てきます。
守口市の歴史や伝統は、古文書や街道跡や建造物だけでなく、地形にも残っていることを思い起こすべきです。滝井の墓地は公園再整備のお荷物ではなく、往時の高瀬を偲ぶことができる大切な場所です。これらを上手に取り入れて歴史的価値を生み出す土居公園再整備事業とすることが望まれます。