こんにちは。守口市会議員団です。
[2013.6.12] -[インフォメーション]
平成24年度の予算を補正し、今年度までの債務負担を行って実施する各学校の耐震補強工事の入札が5月末に行われました。
11ある学校の工事は3つのグループに分けられ、便宜上Aグループ、Bグループ、Cグループと称し、24日はAグループの入札が行われました。Bグループは28日、Cグループは29日にそれぞれ入札が行われました。
入札参加業者はそれぞれの工事ごとに1社しかなく、入札に参加した業者が予定価格の99%前後で落札しています。
1日に3つから4つの工事の入札を行い、順番に落札した業者は残りの入札に参加できないという、いわゆる取り除き方式をとっていますから最後は一者に限定されてしまう可能性が高いことは予測できていましたが最初から1者入札になっています。しかも、予定価格に対して高い落札率になっています。
入札は条件付一般競争入札で行われました。
入札参加の条件は民事再生の適用を受けていないとか、工事実績があるものとかの、一般的なもの以外では①経営事項審査の評点が市内業者で800点以上、市外業者で1200点以上のもので②守口市の入札参加業者に登録されているものとなっています。
守口市の市内業者・準市内業者(守口市内に支店等があるもの)で、経審の評点が800点以上ある業者は、6業者しかありません。11ある工事に条件に見合う市内業者は6業者しかいないのです。
下段の表でも明らかなように、その6業者のうち入札に参加した業者は、4業者でしかありませんでした。このような事態になるのは少なくともAは16日、Bは20日、Cは24日にはわかっていたのです。(参加申し込みの締め切り日)
公共工事の入札は何の為に行われるのかが厳しく問われています。
一者入札は地方自治法上は有効とされていますが、今の趨勢は一者入札をなくすと言う方向です。少なくない地方自治体では一者入札はその時点で中止すると言うことが明記されているルールを持っています。文科省や財務省、国土交通賞なども一者入札を改善するように何度も通達を出しています。
それは、公正な競争が阻害される恐れがあるからです。今回の守口市の入札でもそのことが端的に現れています。一般競争入札では考えられない高い落札率です。オンブズマンの団体は落札率が95%以上なら「談合」だとまで言い切っています。
入札を行うに当たっては、当然市外業者も考慮されていました。市外業者は経審の評点が1200点以上となっていますが、竹中工務店や大林組などのスーパーゼンネコンや1250点以上のA等級の業者の参加は予想されませんからいわゆるB等級で1200点以上の業者が事実上の対象となります。そのことに当てはまる業者はそれでも6業者しかありません。
市内・準市内業者、市外業者合わせても12業者、すべての業者が参加しても12業者、それで11もの工事の入札を行うことに無理があったと言わなければなりません。
「守口市建設工事等業者指名基準取扱要綱」と言うものがあります。指名競争入札に際してその基準等を定めたものですが、その要綱では「9千万円以上の工事では、業者を7者から12者を選定する」としています。それは公共工事入札に当たって透明性と公正性とそして競争性をできるだけ確保するためなのです。
はじめから数者で競争入札をすることなどできないことがわかっていながら、入札を強行した疑いが濃厚です。もちろん、学校施設の耐震補強工事は最大限優先されなければなりませんが、それでも法令順守と説明責任は免れ得ません。
一者入札、高い落札率、参加者ゼロで不調になった工事が3件、どれをとってもこれまで守口市の公共工事の入札ではなかったことが起こっています。
条件付一般競争入札といいながら、12の業者で11の工事の入札では、指名競争入札とどれだけの差があったのでしょうか。少なくとも指名競争入札にすれば、1ヵ所につき7者から12者の業者を選定するのは義務付けられていますから、より競争性があり、より公正性が担保されたのではないでしょうか。
なぜ今回の事態を迎えたのか、その原因についてはこの契約案件が審議される6月議会では明らかにされることでしょう。
[2013.6.3] -[インフォメーション]
「日本維新の会」の共同代表で大阪市長でもある橋下徹氏の、日本軍「慰安婦」は「必要だった」という発言への批判が広がり続けています。
橋下氏や「維新の会」は言い訳に懸命ですが、橋下氏は「必要だった」との主張を撤回していません。それどころか、自分が批判されるのは「日本人の読解力不足」が原因だと開き直り、日本だけが批判されるのは強制的に連行したと思われているからだと、「強制連行の誤解を解く」と言い出しています。「慰安婦は必要だった」という考えを変えない以上、「誤解を解く」などといってもそれは不可能です。
慰安所への日本軍の関与を示す資料はたくさんあります。
中曽根康弘元首相は、海軍主計中尉として「二十三歳で三千人の総指揮官」という題名の回想録を寄稿(松浦敬紀編著『終わりなき海軍』文化放送開発センター出版部78年90~98頁)。
その中で「原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために私は苦心して慰安所をつくってやった」と述べています。
そのことを裏付けるのが、2011年10月に防衛省防衛研究所戦史研究センターの資料室で発見された「海軍航空基地第2設営班資料」です。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに62年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26頁)。
資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。
飯沼守上海派遣軍参謀長の日記(37年12月11日の項)でも「慰安施設ノ件方面軍ヨリ書類来リ、実施ヲ取計フ。」
同(同年12月19日の項)「憲兵ノ報告ニ依レハ十八日中山陵奥ノ建物ニ放火シ今尚燃ヘツ丶アリ。又避難民区ニ将校ノ率ユル部隊侵入強姦セリト言フ。迅速ニ女郎屋ヲ設ケル件ニ就キ長中佐ニ依頼ス。」